歌や話における「表現力」について考えよう


さて、前回も書いた通り、久々に合唱やってるんですよ、最近。

【漢祭】(おとこまつり)


札幌市内の若い男声合唱団が集結!


2011年12月29日(木) 18:30開演
場所:札幌サンプラザホール (札幌市北24条)
入場無料

で、思うところが色々あったので、久々に「表現力」に関する話を、しばらくしていこうかと。


「音取り」と「表現」?


よく合唱団の練習とかだと、


「まず、しっかり『音取り』(楽譜に書いてある音程、リズム…で歌えるようにすること)をして、」


「次に、それができたら『表現』(強弱や音色や表情を整えたりすること)をつけていこう!」


…という流れになりがちですが、こういう話を聞くと、
「その話、ちゃんちゃらおかしいよ!」
と思ってしまうんですよねえ。


というのも、ある一定の音程、リズムで歌うこと、それ自体が既に「表現」だからです。
例えば、まっすぐなリズムで何かを表現したい曲なのに、リズムがふらふらしてしまっては、想定していたものと全く違うものを表現してしまうことになってしまいますよね。
また、音程も、ズレたりしてしまえば元と全く違うものを表現してしまうことになりますよね。
ハーモニーが変わってしまって全然印象が違ってしまったり、明るいはずのメロディーが暗くなってしまったり、聞いてて「あれっ!?」となるはずの装飾音がスムーズに素通りされてしまったり…。
歌における、例えば高い音ってのは、ただ高いだけじゃなく、その高さで「物理的な強さ」「感情的な強さ・高揚」「空間的な高さ・大きさ」…などの「なにか」を表現したくて高い音を出すわけです。
リズムも、メロディーも、ハーモニーも、それ自体が「なにか」を表現する手段なわけですね。


…だから、「音取り」の後に「表現」ってなんかおかしくねーか、と思うのです。
「音取り」と称して、「表現(この場合、歌いまわし、と言い換えてもいいかも)」を無視して、ただただ音程やリズムだけを確認して「歌える」ということにしてしまう意味などあるのだろうか…とさえ考えてしまうことがありますね。
「音程やリズムはわかるんだけど、歌いまわしをどうすればいいのかわかんないorやってない」って状態、それ、「音が取れてる」って言えんのか、と。それって楽譜を全然読めてなくねえか、と。


歌だけじゃなく、「はなし」の場合でも…


これは、歌だけじゃなくスピーチや日常会話などの「はなし」でもおんなじことだと思いますね。
発音、滑舌、話したい内容が頭に入ってるか、原稿を間違えずに読めてるか、どういう言葉を選ぶか、文法は適切か…という部分と、
強弱やら、溜め・間のとり方やら、速度をどう上げ下げするかとか、どこを向いてどんな顔で話すかとか…という部分があるわけですが。
やっぱりこれも、「表現」「表現力」という言葉を聞くとどうしても後者だけを想像しがちですが、前者も全く「表現」「表現力」の内に収まっているものなんですね、本来は。


両者とも「表現」で、両者とも大事


両者とも「表現」で、両者とも大事です。
これが分離しちゃうと、変な話になっちゃうからね。


歌なら、音程やリズムによってやるべき適切な表現(の選択肢)が決まってきます。
また、表現したいもの、表現する方法によって適切な音程やリズムが決まってくるわけです。
だから、「表現をつける」ってときに「音取り・作曲」の結果、そうなるべくしてなった表現でないと変だし、「音取り・作曲」するということは、歌いまわしなどの「表現」も同時に考え、解き明かし、作り上げていく過程でないとおかしいわけですね。


どっちも大事で分離して考えるとなにかがおかしいことになりがち。
これは「歌」だけでなく「話」でもおんなじこと。
・音痴じゃないけど、なにも伝わってこない
・雰囲気はあるけど、音痴
・言ってることは正しいけど、話し方に熱がない
・いい事言ってる雰囲気なんだけど、何言ってるかよくわからない
…なーんてことにはならないように気をつけましょう。


…現実の話をすれば、
「音程とりずらいから、最適な声質とか考えるの放棄して音程だけに集中するぞ!」
とか、
「とりあえずハッキリ発音することだけに集中!他は捨てろ!」
とか、
「発音とか音程とか多少ぐだぐだになってもいいから、雰囲気だけ重視で!」
みたいなことになりがちなんですが、やっぱり「音取り」と「歌いまわし」の両方が「表現」だ!ってことを知った上で、そのなかで今の自分は何を優先すべきか…と考えてみると、見える景色がまた違ってくるのではないか、と思います。
この辺の関連エントリは↓
何かを「選ぶ」ということは、何かを「捨てる」ということ。 - 烏は歌う
私の「音楽観」について少し。 - 烏は歌う