指導時に抽象的な説明・曖昧な言葉に頼り過ぎないことの大切さ。

色々と他のブログを読んでいて、考えていたことを。


良い教本というのはどういうのだろう:島国大和のド畜生

「抽象的な説明は理解が終わった人向けか、何となくわかった気になる用なので、最初に読んでも役に立たない」


至言、だと思います。
これがわかっていないと、「イメージ」とか「例え」とかの抽象的な説明の方がきっとわかりやすいだろう!と誤った信念の元、わかってない人相手に抽象的な「頭から声を出せ」だの「響きがどったら」だのというような説明をしまくって「何となくわかった気がするだけ」の状態にさせつつ、もうわかってる人同士うなずいて終わる…ってのはボイトレあるあるの一つというか。


まあ、さすがにボイトレ初心者に「発声のメカニズムとは云々」と長々と具体的で詳細な説明からスタートする…ってのはちょっと現実的でないというか、向き不向きがありますね。
そういうのを面白いと思える人にはいいんだろうけど、そういうのにあまり興味ない人とかとりあえず実践から入りたいとかには、ある程度「抽象的な説明」から入るのも有効だったりします。
が、あくまである程度にして、具体的な説明も入れて行かないと、「わかったつもり」のままです。


自分の最近の事例を出すと、合唱をやるときにはいわゆる「深い声」が要求されるのですが、なにがどう深いのか、どうやったら深くなるのか…というのをかなり抽象的にしか教わって来なかったもので、本当によくわからなくて困ってたんですよね。
とりあえず「よくわからないから、深い声なんて目指さない」とするか、「わかった気がした」ということにして不安定で我流な深い声を出すか、という有様。
で、具体的に「深い声」ってこれなんじゃないか、この方法に従えば安定して深くできるんじゃないか、という方法に出会い、感動して書いたのがこれ↓。
「深い発声」ってなんなんだろう…母音と舌の形 - 烏は歌う
うん、やっぱり、具体的に説明されると「再現性」とか「練習の効率」とかが全然違いますね。


そういうわけで、何かの指導をされるときは、とにかく「抽象的な説明に終始する」ことはやめてほしいと思いますね。



マニュアル本の作りかた - medtoolzの本館

動作を言語に落としこむのは、簡単なようでいて案外難しい。
その作業に慣れている人ならば、「こうやればいいんだ」と演じてみせることはごく簡単なことなのに、「こう」を言葉に置き換えたとたん、「こう」は遠のく。動作を言葉に置き換えて、誰にでも再現可能な作業から結果を導けるような文章を作れる人は少ない。

作業の過程を記述するのは難しい。慣れた人が内的にやっている動作は、その人にとってはもはや当たり前に過ぎて、外から見て自分がどんな動きをしているのか、ベテランはしばしば分からない。過程を言葉に置き換えるためには、まずは自分の動作を文章にして、今度はその文章に従って、実際に動いてみないといけない。
動作がきちんと言葉に置き換えられていれば、今まで簡単にできた何かが、いきなりできなくなっていることに気がつく。「できない」ことに気がつくと、今度は自分の文章にかけていたものが見えてくる。効率を落として、そうした体験を繰り返すことで、ようやく「できる」を記述できるようになる。


ボイストレーニングをやってて一番難しいのは、これですね。
例えば「腹から声を出して!」と言うのは簡単ですし、上級者にはそれでわかるから問題ないんですけど、「腹の何処を使うのか」「腹の何処をどのようにどういう順番で動かすのか」「腹の何処には力を入れてはいけないのか」「腹を使うためには、腰から下・胸から上がどういう状態になっていないといけないのか」…などなど、考えなくてはならないことは山ほどありますね。


これらを「腹から声を出して!」の一言で説明できるわけですから、こういう言葉はものすごく便利なのですが、同時に危険でもあります。
指導されている人は「腹から声を出しているつもり」なのに、指導する人から見たら「腹から声が出ていない」と判断されるような場合、どれだけ「腹から声を出して!」と繰り返し言っても無意味なわけで、指導している人とされている人の間での「腹から声を出す」に関する認識のずれ、認識と実態のずれを見つけ出し、修正しなければならないわけです。
そういう場合に必要になってくる作業が、この記事に書かれているような、非常に面倒くさい作業なのです。
非常に面倒くさい作業なのですが、これを経ないと「再現性」というものは全然出てこなくて、「わかる人にはわかるし、わからない人には一生わからない」指導になってしまうのですね。



研修期間中の勉強について - レジデント初期研修用資料

曖昧な言葉を減らすのは案外に難しい。


曖昧な記載が行われた場所は、自身では「分かっている」つもりでいて、あまつさえ得意分野であるにもかかわらず、実は細かい検証を怠っている場所であったりもする。検証を怠っても業務には全く支障が出ない代わり、その分野では「適当にやってくれればいいから」という指示が飛ぶ。みんなが慣れていると、場の「適当」は実際に上手に動いて、検証の機会はますます遠のく。


他者からの質問は、勉強会や講演の品質を向上させる。「当たり前」を共有していない誰かからの質問は、マニュアル本から曖昧で便利な言葉の排除を求める。「それを当たり前と思っている自分自身」は、他人の目線で検証される。


抽象的な説明・曖昧な言葉は「それを既にわかっている人」「当たり前を共有している人」には有効なんだけれど、ことに「指導」「教育」という点で考えると、それは通用しないわけです。
なにしろ、「まだわかってない人」と「当たり前を共有する」ための言葉を選ばなければならないわけで、抽象的な説明・曖昧な言葉を使って上手くいくはずがありませんね。


しかし、自分が「できている・わかっている」ことに関して、抽象的な説明・曖昧な言葉を使ってしまうことに気づかないことも多いのです。
既にわかっている自分にとっては十分に具体的、というか実用的な言葉なので。
なので、そういう曖昧指導言語を無くしていくためには、「当たり前」を共有していない誰かの質問や誤解や失敗などを大切にすることですね。
「当たり前」を共有していない誰か…例えば初心者であったり、属する分野や来歴の違う人であったり、異なるメソッドを学んでいる人であったり…そういった人達の素朴な疑問を、「こいつ勉強不足だなあ」とシャットアウトしてしまうのではなく、「もしかして自分は今、自分にしか通用しない言葉で喋っているのかもしれない」と捉えて、検証していくこと。
それによって、指導力というものは上がっていくのでしょうね。