書けば書くほど不自由になるが、いったん不自由にならないと自由になれないという話。

さて、最近更新が滞りがちですが、身内の合唱団で「発声関係の勉強会」をやろうという話になりまして。
とりあえず、割と暇で、かつ団の中ではそこそこ勉強している部類の私が資料作ったり内容の計画立てたりしてるんです。
で、そっちの方に気力を使っているため、ちょっと更新頻度が落ちたりしてます。


で、そんな資料作ったりしながら思い出したのが、昔ホッテントリになってたこの記事。


マニュアル本の作りかた - medtoolzの本館

動作を言語に落としこむのは、簡単なようでいて案外難しい。
その作業に慣れている人ならば、「こうやればいいんだ」と演じてみせることはごく簡単なことなのに、「こう」を言葉に置き換えたとたん、「こう」は遠のく。動作を言葉に置き換えて、誰にでも再現可能な作業から結果を導けるような文章を作れる人は少ない。

作業の過程を記述するのは難しい。慣れた人が内的にやっている動作は、その人にとってはもはや当たり前に過ぎて、外から見て自分がどんな動きをしているのか、ベテランはしばしば分からない。過程を言葉に置き換えるためには、まずは自分の動作を文章にして、今度はその文章に従って、実際に動いてみないといけない。


動作がきちんと言葉に置き換えられていれば、今まで簡単にできた何かが、いきなりできなくなっていることに気がつく。「できない」ことに気がつくと、今度は自分の文章にかけていたものが見えてくる。効率を落として、そうした体験を繰り返すことで、ようやく「できる」を記述できるようになる。


マニュアル本を作ると、最初はかえってミスが増えるし、作業の効率は落ちていく。そうならなかったら、その人の書いたマニュアル本は、全く使えないものである可能性が高くなる。


…これ、本当にそうです。
私もしょっちゅう、
「ブログ書いたら、余計わからなくなった!」
「書いたものをその順番に実行してみたら、実行できない!手順が欠けてる!順番が違う!」
「ブログで紹介したことを意識し過ぎて、まともに歌えなくなった!」
「書いたことばっかりに目が行ってしまって、他の問題がガンガン出てくる!」
…とか、よくあります。
非常によくあります。
これが、ブログのいいところであり、悪いところでもある。


今回の資料作りでも、書けば書くほど自分の文章にツッコミどころを見つけてしまい、全然できあがらなくて。
書いた通りにやってみたら、「…あれ?」となってみたり。
ただ「…あれ?」で終わるだけならいいんですけど、さっきまでできたことが、意識したらできなくなってたりして。


でも、そういう過程を経ないと、レベル差や感じ方に差のある人に何かを教えたり、意図を共有することは不可能なんですね。
少なくとも、「マニュアル化」はできない。


合唱団としてレベルアップしようと思ったら「色々な技術をある程度はマニュアル化して共有するべき」だと思って、私は勉強会用の資料を作ってみてます。
こういう試みは身近で何度もあったのですが、やってみると必ず訪れる「かえって能率が落ちていく段階」に耐え切れず、なあなあになってしまうことが多かったですね…。
で、マニュアル化とか無理だね、と。できている人はできているんだしいいか、と、なる。
で、「頭から声を出せ」だの「響きがどったら」だの、抽象的で受け取り方は無限大!(←つまり具体性は限りなくゼロ)な指示しか出せなくなったり、精神論に終始するハメになるわけ。


そういう言葉ってのは「すでにわかっている人同士でわかりあう」ためか「わかったふりをする」ためにしか使えないので、そういいう言葉が飛び交う環境では「まだわかってない人」は「ニブイヤツ」として放置されてしまう。



産みの苦しみを超えられるのか、という話でもあります。
でも、今の私は、
「マニュアル本を作ると、最初はかえってミスが増えるし、作業の効率は落ちていく。そうならなかったら、その人の書いたマニュアル本は、全く使えないものである可能性が高くなる」
ということを知っているから、 けっこう気楽に超えられそうな気がしてます。


合唱団に限らず、発声に限らず、色々なところで「マニュアル作り」をする必要を感じる場面があるかもしれませんね。
実際にやってみると、ものすごく苦しい作業です。
苦しむ中で、「もしかしてマニュアル作りって、自分には向いてないんじゃないか…」とか思うかもしれない。
でも、そうしないとできない作業なんだ、苦しんだだけ良い物になるんだ、というのを知っておくと、がんばれます。