「上手いだけではダメ」というあれこれについて。

過去にも何度も書いてきたけど、なんかちょっとTwitterの方で反応があったので。


あと最後に気付いたのですが、これは当然ながら「最低限の技術があった上で」の話ですね。
もし大した技術もないのに「上手いだけではダメ」と言われた場合、「いかにも私って上手いでしょうって言わせたいように見える、そういう技術の使い方や態度が鼻につく」と訳すのが適しているかと思います。


「上手いだけではダメ」なら、何が必要なのか1


「上手いだけではダメ」とは一部ではよく言われることですが、何がダメかというと、そこに「個性」がないからです。
こういうと「個性が大事とか、ゆとり教育かよ!世界に一つだけの花とか真に受けてんのかよ!」とか思われがちなので言い換えると、
「代替不可能性」
とでも言うものがないと、なかなか世の中に受け入れられていくことは難しい。


「上手いだけではダメ」と言われた場合、半分程度の場合は「そのくらい上手い人ならいくらでもいるし、他に何か売りは無いのでしょうか?」という意味である。
歌でもなんでも、とにかく「こういうのやらせるなら別の人でもよくない?」「このくらいのクオリティならもっと○○できる人を選ぼう!」と思われてしまうのはなかなかに致命的である。
なので、何らかの「代替不能」な要素というか「自分ならではの個性を生かしたウリ」を持っておくのが、「上手いだけではダメ」と言われないためのポイント。


もちろん、
「俺は、世界中のどこを見ても代わりがいないくらい上手くなってやる!」
という決意をもってそのように努力するのは、それはそれで素晴らしいことだし、実際そういう人もいなくはないけれど、まずその道は競争率がめちゃくちゃ高いのであんまりおすすめはしません。
さらに、いわゆる「単なる上手さ(正確性とか超絶技巧とか)」というのは割と行き着く先が想像しやすい(ように素人には思われがちな)ので、素人には過度に安くみられてしまいがち、という損なポイントもあります。


なので、「自分ならではの個性を生かしたウリ」ってのが何なのか、ときどき考える必要があるかもしれない。
と言っても、そんな大した「人より桁外れに優れた部分」だとか「他の人にはたどりつけない境地」だとかが必要なわけでもないんです。
「優れている」とか「こういうのが好きである」というだけでなく、「欠けている」とか「こういうのが許せない」とか、そういう一見するとマイナスっぽい要素も時に芸術家として欠かせない個性になったりする。
身体的な個性であったり、経験や知識による個性であったり、個性というものは必ず人それぞれあるので、それの何をもって「表現」に乗せるのか(乗ってしまっているのか)を考えることはとても大切。
それこそ、だれもが生きてるだけで「元々特別なオンリーワン」なわけですが、それを誇りに(まではしなくてもいいかもしれないが、少なくとも隠したり卑下したりせず)、「だから私を選んで!」とまで思えるメンタルになるには訓練が必要な場合があったりもします。
まあ、もし拾い上げてくれる人がいるならば「私なんて個性も何もないです、生まれてきてすみません」みたいな卑屈メンタルもそれはそれで個性になり得ることもある(拾い上げてくれる人がいれば)。


「上手いだけではダメ」なら、何が必要なのか2


「上手いだけではダメ」と言われた場合、半分程度の場合は「そのくらい上手い人ならいくらでもいるし、他に何か売りは無いのでしょうか?」という意味である。
…では、残りの半分はどういう意味かと言うと、
「上手い(正確である、技術がある、すごい練習をしてきた…)のはわかるが、私の好みではない」「私の知っているものとは違いすぎていて、あまり受け入れられない」
という意味である。
身も蓋もない。


技術というのは「やりたいことを思い通りにやる力」なのであって、「やりたいこと(コンセプト)」が違えば違う技術が必要になってくるわけです。
「上手いだけではダメ」と言われると、「どうして私の技術の素晴らしさがわからないんだ!これだから素人は!愚民どもは!」とどうしても考えてしまいがちであるが、そりゃあ求めるものが違っていたら、わかりあうことはできないのです。


音楽なんかでも、練習や勉強を続けていけば「世界中のだれとでもわかりあえる音楽」が作れるはずだ!みたいな錯覚に陥りがちですが、そんなことはないんじゃないかなーというのはときどき思いださなきゃならない。
この前こんなツイートを見かけたのも、この記事を書くことにした理由のひとつなんですが、「私が思う良い音楽の条件、必要な技術」と「聞く人にとっての良い音楽の条件、必要な技術」が同じとは限らない(というか、全く同じ感覚の人間はいないかもしれない)のです。


例えば、音楽理論では音楽とは「リズム・メロディ・ハーモニー」の三大要素があって、それがどういう単位でどういう構造でループしているかを読み解くことで音楽が理解できる…ということになっていますが、これ(汎)音楽理論ではなく(西洋伝統)音楽理論であって、そういう分析の利かない音楽なんて世界中に山ほどあるわけです。
あとは、「協和音は気持ちよくて、不協和音は気持ち悪い」とか、「ハ長調がもっとも落ち着く曲調で、フラットやシャープが増えるほど異質な感じの曲調になる」とか、そういう「本能的な感覚なんじゃないか?」と思うような部分も結構な割合が「文化」というか「慣れ」の範疇に入るそうでして。
そういう感覚のズレを無視して、「私の磨きぬいた技術が通用しないなんて!?」なんて思ってしまってはお互いのためにならないわけです。


「正確な音程」とかよく言うけど、それはあくまで(西洋クラシック音楽の文脈に於いて)「正確な音程」だったりするわけで、西洋クラシック音楽の文脈に詳しくない人からすればちょっと理解されないことも多い。


卑近な例で言えば、私はそこそこ人前でよく喋る職業に就いているのですが、「コンディショニングが上手くいった、会心の声」よりも、「前日に酒を飲みすぎてガラガラになっちゃった、個人的には最悪の声」の方を「味があっていね!実に感情が動かされたよ!」と言われたりしています。
合唱の話でいったら、一般的な人にとっての合唱経験って「クラス合唱」なわけで、「寸分の狂いもないアマチュア合唱団の至高のハーモニー」なんかより「そこらのアイドルグループの音程もリズムもブレッブレの合唱もどき」の方を「こっちの方があったかくて好き!懐かしい感じがする!」みたいに言われちゃうのもよくある話でして。


努力を否定するわけではないけれど、「ある分野に入れ込むと、絶対に世間と感覚はずれてくる」ということは忘れないでいたいところ。


「現地の人」に理解されるには、とにかく「現地の流儀」を学ぶことが何より大事なわけで、よく「過去に大ヒットした音源をよくよく聞き込め!」「(そのジャンルでよく演奏される)スタンダード、ルーツミュージックを大事にしろ!」と言われるのはこのせいです。
そのスタンダードナンバーがそのジャンルに馴染んでいる人の「良し悪しの基準」を作っているわけで、人類の良し悪しの基準に合致したからスタンダードになったわけではないんだなあ。
聞き込んだスタンダードが「血肉になる」とはよく言うけれど、同じ血肉を共有してないと、なかなか素直に「上手い!」とは評価できない。


言わせときゃいい


などなど書いてきましたが、評論する側に「上手いだけではダメ」という権利があるならば、評論される側にだって「開き直る」権利があるわけです。
「上手いだけではダメ」と選ぶ権利が相手にあるのなら、こっちにだって客を選ぶ権利はある。
まして、ある程度世間の評価を確保しないといけないプロではなく、好きでやってるアマチュアの立場なら「こっちがこうやりたいんだから、こうやってるんだ」で突っぱねたっていいわけです。


その上で、「ああ、でも言われてみれば私にはこういう視点が欠けていたな…」「私にはこういう顔も望まれていたのか…」と思って新たなジャンルを開拓するもよし、「お前ら素人に本当の○○を聞かせてやる!教育してやる!」という感じで敢えて今の路線のまま新世界に突っ込んでみるもよし、「そうですか、あなたとは趣味が合いませんね、ご縁がなかったということで…」と完全無視を決め込むもよし。
好きにすればいいんですよ。